僕よりは大きなこの街の固い道の上をてろてろ自転車で時々パンクもするよ後編!
やたら都知事選が盛り上がってるね。
いつもなら「どうせ石原さんに決まりでしょ」って空気なのに今回は若干の荒れ模様。
水面下で左翼が動いてるとしか思えないよね。
ちょうどアメリカの議会に慰安婦問題が上がっている。日本で堂々と反論できるのは石原さんぐらいだ。
その石原さんをなんとか表舞台から消そうと、左翼が焚きつけて回ってるってのが真相でしょ。
個人的に石原さんは嫌いだ。性格といい物言いといい横暴で気に喰わない。しかし石原さんは戦える人間である。ぜひともまた都知事に就任してほしい。
上に立つ者は戦える人間でなければならないのだ。
さて前回のテロ肯定論はかなり方々から賛否両論ありましたが、いやありませんでしたが、刻詠さんが寄せてくださったコメントもテロ肯定論の一部ということになっております。
ではテロ肯定論の後編をやっと始めたいと思います!
報復の連鎖という言葉がある。
やられた者が報復し、報復された者がさらに報復し、報復に報復を重ねて無限に報復が起こるという意味だ。だから報復は何も生まない、むしろ憎しみだけを生むらしい。
果たしてそうだろうか。人間の直感は、それとは逆のことを言ってないか?
結論から言えば報復は無限に続かないし、憎しみどころか平和を生む。泣き寝入りが不当な暴力を生むんだよ。
そのキーワードになるのは『覚悟』だ。
報復するには覚悟が必要である。
『殺す』という手段で報復するなら、まず人を殺す覚悟が必要だ。また実行すれば返り討ちにされる可能性もある。イジメのように安全圏から他人だけを攻撃することはできないのだ。人を斬ろうとするなら己の身も相手の白刃の下にさらす覚悟が要る。
そして報復を果たしたとしても法律によって必ず裁かれる。刑期が終わったら、今度は相手の家族や友人に命を狙われるかもしれない。報復に報復で返すことは不当で不道徳だが、実際に起こり得る。その覚悟もしておかなければならない。
報復にはこれらすべてことを死ぬまで背負っていく覚悟が必要なのだ。
そう易々と報復の連鎖が起こせるだろうか。それなりの理由と強い意志がなければ報復はできない。
ちょうどさっき買ってきた『覚悟のススメ 完全保存版』に「受けた恨みを返せぬ者は、受けた恩を返すこともできない。復讐は平和の為にある」という作者の言葉があった。書こうと思ってたことがそのまま載ってるんだから嬉しいじゃないか!
山口貴由作『覚悟のススメ』は秋田書店より絶賛発売中だ。覚悟完了! 因果! 螺旋! 正しいから死なない! 散さまの御体重は54kgなり!!
チャンピオンRED連載中、同じく山口貴由作『シグルイ』も買って損はさせないぜ!
話が逸れましたので違う角度からテロ肯定論を続けたいと思います。
例えば数年前に核兵器で破壊された国があったとしよう。仮に核兵器を撃った国をサギー帝国、破壊された国をラディーン王国という名前にする。
サギー帝国の一般市民が平和に暮らしていたら飛行機が次々とビルに突っ込むという同時多発テロが起きた。死傷者は数万人、被害総額は数千億ドルという人類史上最悪のテロである。
やったのはラディーン王国の生き残りだった。かつて自分の国を破壊したサギー帝国への報復が目的だったという。
しかし核兵器を撃ったのは政府の上層部で一般市民には何の関係もない。巻き込まれた一般の人々は何のために死んだんだ。
気持ちはわかるが、テロだけは絶対にやってはいけない。
かつてポチ皇国という国があった。ラディーン王国よりも前に、サギー帝国に核を落とされた国だ。
ポチ皇国では生き残ったわずかな科学者が核兵器を完成させていたことが判明した。核兵器はサギー帝国に向けられ、すぐにでも発射できる状態だった。
世界中の人々がポチ皇国を非難した。
核で滅ぼされた痛みはわかる。報復したくなるのは当然だ。
だが報復して何になる? ポチ皇国が元に戻るわけではないのだ。何より、この報復には大多数の無関係な人々が巻き込まれる。
気持ちはわからなくもないが絶対にやっちゃダメだ。
サギー帝国は賠償金など払わない。払わないと核を落とすぞと脅しても払わない。本当に落とそうとすると世界中に非難される。
そもそも払われても何にもならない。
ポチ皇国は泣き寝入りした。
そしてサギー帝国は同じことを繰り返した。核を落としても報復されない。弱い国と戦争すれば、自分は安全圏から相手だけを徹底的に攻撃できるのだ。
もしも後世、テロで報復されそうになっても、世界中の人々が「テロ反対!」と助けてくれる。だってテロは絶対に『悪』なのだ。
もちろんサギー帝国も非難されるが、やっちゃったものは仕方ない。やっちゃったものは仕方ないが、これからやることは止められる。
世界中の人々は未来だけが好きだ。だから過去にこだわるテロはやっちゃダメ、未来に向けて生産的に平和に暮らそうと言うのだ。
最高だぜ、テロのない平和な世界は。何しろオレだけが一方的に弱者をいたぶれるんだからな!!
今の世界で起こってるのはまさにこういうことだ。
確かに無関係な人が巻き込まれるのはいたたまれない。できれば私も巻き込まれたくない。
だがサギー帝国が核を飛ばしたのと同時にラディーン王国が核を飛ばし返したら、どう思う? 誰もが「仕方ない」と考えるはずだ。
それなのにどうしてテロによる反撃は駄目なんだ? 少しでも時間が遅れたら「仕方なくない」のか?
それはつまり「今の時点で弱い者が攻撃されたら泣き寝入りするしかない」「今の時点で強い者は何をやっても許される」ということじゃないか。
そんな理不尽がまかり通ってたまるものか。
テロを肯定する最大の理由は、テロが抑止力になるからだ。今は弱者でもいつか必ず反撃する―――弱い者いじめはできなくなる。
もちろん報復テロに限った話だ。自分の主張を通すために用いる暴力など言語道断である。
道徳なき人間を抑制するのは罰しかない。だが法律では充分に罰せられないこともある。そういう抜け道を残したら道徳なき人間の思いのままだ。
テロは、罰することができない存在を抑制する最後の手段なのだ。
しかし、これって机上の空論なんですよね。
何故ならテロが抑止力だと認識できる人間がいないからです。抑止力は「これは抑止力だ」と認識されなければ機能しない。
意図的なのか偶然なのか、そういう世の中になってしまったんですよ。
上っ面ではないテロの本質に気づいてくれ。
矢野絢子さんの「てろてろ」はすごくいいです。そういうわけで「テロ肯定論」前編!
まいどまいど、やっとこ更新です。月一更新でもついてきてね!
お願いします・・・
えー久々でなんですが2回に分けてちょっと受け入れにくいヤツをやろうと思います。
そのお題とは・・・
『テロ肯定論』!!
さあ、右翼ですら全肯定はしない大東亜戦争を全肯定しちゃうアブナイ奴が、いよいよ国家社会の大敵、テロまでも肯定し始めたぞ。
テロに巻き込まれてもいいというのか? あの悪夢の9.11テロまで肯定するのか? 初めて買ったCD「てろてろ」と関係あるのか!?
今回は前編、次回は後編でやろうと思います。お時間がありましたら付き合ってやってください。
前編は恒例、ニュースの話題です。
日本でひき逃げしてブラジルに逃げた男が裁判を受けることになった。
国外へ逃亡すれば犯罪者は犯罪者ではなくなる。当然ながら国によって法律が違うからだ。犯罪はその法律が適用される範囲での違法行為である。よって、逃げ込んだ先の国が承諾しなければ他国が裁くことはできない。
今回の件はブラジル国が日本国の代理として犯人を裁くことになった。ここまで来るのに、たしか8年ぐらいかかったはずである。気の遠くなるような年月だ。
また、信号無視が原因の自動車事故で幼い女の子を殺したブラジル女も、最近 頻繁にテレビに顔を出している。この女も国外逃亡しておきながら平気なツラで「信号は青でした」と宣っているのだから、遺族の神経を逆撫でしているとしか思えない。
もし皆さんが遺族の立場なら怒り心頭に発し、悔しさに涙が留まらないと思う。あるいは報復に出るかもしれない。私なら叩き斬りに行ってしまうところだ。
この気持ちは良い意味で人間らしい感情を持っていれば誰でも理解できるだろう。仮に身近な人間が報復に出ても止めないかもしれない。
しかし、それは犯罪である。犯罪と知って暴力行為に及ぶことは、すなわちテロである。
だが遺族に同情を示さない人間の方が明らかに少数のはずだ。
なんでもないことで人が命を落とし、悪人が悠々と生き延びたのでは、この世の道理が通らないではないか。
遺族は犯人を殺して日本に逃げ帰ってきても善いと私は思う。このテロを私は肯定する。
侍の信条を持っているなら切腹することも善い。仇を討って正義の道理を貫き、腹を切って公道の秩序に身を捧げることが、日本人の最も美しい姿の一つだと思う。勝手なこと言ってごめんちゃい。
もう一つ、最近のニュースで観た特集がある。リンチを受けて脳に障害を負ってしまった青年の話だ。
その青年は中学生の頃、人違いで不良グループに絡まれ、激しい暴行を数時間に渡って受けた。犯人の不良どもは途中で人違いに気づいた(というか、どうでもよくなった)が面白がってリンチを続けたそうである。
発見された当時、青年の顔は信じられないほど腫れ上がって、脳は大型トラックに猛スピードでぶつけられたようにグシャグシャに損傷していた。
一命は取り止めたが身体の機能不全が残り、特に脳の障害は日常生活にも支障を来たしていた。例えば新しいことをなかなか記憶できず三歩 歩くと忘れてしまうような状態である。
しかし青年は塞ぎ込んだりはせず前向きに生きることを決めていた。自殺衝動に駆り立てられることもあるが、一生懸命に生きる道を自分の手で選んだのだ。
ときどき自分をこんな目に遭わせた奴らを思い出し「くっそぉ・・・!」と思うこともあるらしい。少年だった犯人グループはさっさと刑期を終えてのうのうと普通に暮らしている。
でもそんな奴らのことを考えていてもしょうがない。それで自分の人生が変わるわけじゃない。自分の人生をどれだけ楽しめるかが大切なのだ。
私は違和感を覚えた。
青年のことを思えば同情する以外にない。もしも自分だったら・・・その苦悩は想像の域を出ないのだ。
私は集団暴行されたわけでもなく、脳に障害を負っているわけでもないが・・・・・・そうは思わない。どうしても彼と同じ考えには至らない。
青年が「自分の人生を楽しむ」と言っていたのは正しいかもしれない。
だがそれは「自分の人生がどこにあるのか」を見ていないからではないだろうか。
人生はほんの一瞬のことである。我々が生まれてくる前には気の遠くなるような歴史があるのだし、死んだ後にはそれこそ永久の歴史が積み重なってゆく。
我々には長く永く感じられるが、それは遥かに永い歴史の砂の一粒のようなものなのだ。
その死生観を持ったとき、答えは変わってくると思う。
自分の人生を精一杯 楽しむことよりも、やらねばならないことがある。
やられたらやり返すのだ。
復讐ではない。憎しみで傷つけるのではない。
やらねばならない。そういう感覚が沸き起こってくるはずだ。
そのエネルギーの一つは人間の根本的な怒りである。だが憎しみで肥大した嚇怒や、恨みで捻じ曲がった怨怒ではない。
人間が内に持つ激情が発する、根源的な怒りそのものをぶつけるのだ。それは本人だけができる。
殺しても構わん。理性が飛んだら叩き殺してしまえ。相手は理性の内にリンチを楽しんだのだ。
大切なのは自分の人生を「いかに楽しむか」ではない。「いかに仕上げるか」だ。
・・・・・・過激だったかなぁ〜。
パッと見は過激というか危険かもしれないけど、論理化すればそうでもないとわかるはずです。
今の教育を受けて育つと、怒りや激情や暴力は悪いものに見えると思う。私も以前はそう思っていた。
でも激情や暴力も人間の一部なんだよね。けっして否定的なものじゃないし、否定しても無くなりはしないんだ。
子供同士のケンカはすごく少なくなったように思う。ドラマやマンガで昔の子供の様子が描かれていると必ずケンカしてる奴がいるんだけど、私が小さい頃はもうほとんどケンカはなかった。今はもっと少ないんじゃないかな。
じゃあ激情や暴力がなくなったのかと言えばそんなわけはない。振るえない暴力はケンカの代わりに陰湿ないじめを生んで、表せない激情は子供同士の殺人みたいにして暴発するようになった。
激情や暴力をアメリカはテロと呼んだ。そして世界中がテロと呼ぶようになった。
テロをアメリカは悪と呼んだ。世界中がテロを絶対悪と呼ぶようになった。
何故、アメリカに激情がぶつけられたのか? 何故、アメリカに暴力が振るわれたのか? それだけの理由があったんじゃないのか?
そんなことを考える間もなく「テロ=悪」は固定観念になった。
すべてのテロを肯定するわけではない。
すべての激情や暴力を否定した世界がどう傾いていくのか、それを言っているのだ。
命を大切にしない奴なんか大きr・・・それよりグウィン婆さんに謝れって友達が言ってたぞ!!
早いもので今年も暮れですね。前回の更新から余裕で3週間以上 経ってますね。
本当に早いものですねぇ。
あのさぁ、ブログを「メディア」って言ってる奴がいるっしょ? 「ブログというメディアで私の意見を発信する」とか言ってる奴。
ブログサイトは公共の場だがメディアじゃねーよ。多数のリンクで同時企画をやってたり、膨大なアクセス数で定番と化しているブログはメディアかもしれないが、それ以外はただの日記でしかない。町の掲示板に貼り付けたチラシは「メディア」だが、自宅の前に開いておいた日記を「メディア」とは言わないだろう?
ブログはあくまで自己満足+αで、何かを発信できるメディアじゃない。言葉の垂れ流しは意見ですらない。何かしらエンターテイメント性がなければ本当に自己満足でしかない。
このブログを読んでくれてる方々は十数人しかいない(知らない方が何人か熱心にアクセスしてくださってるようでまことにありがたい。いつも感激しております)けど、その辺りの自覚を持って来年も一層がんばって参ります。
では・・・やっちゃおうか? やってやろうか!? みんながそこまで言うならやってあげようか!!
ブログというメディアを通して今年の総括だ!
ヒャッホーゥ!!
今年一年を表す文字は『命』に決まったそうだ。TIMの台頭が今年なら引っ張りダコだったはずである。
良い意味では天皇家に男子が生まれたことを祝し、悪い意味では異常な殺人事件やいじめを苦にした自殺への憂いを含んでいる。
これにちなんで今年最後のブログは『命』をテーマにしよう。
年末のニュース番組では毎日のようにいじめ問題を取り上げて「命の大切さを考えてほしい」とまとめていた。いじめで自殺した少年少女を取り上げて嘆き、教師や学校を責め立て、いじめそのものに憤って、最後に命の大切さで締めくくるというパターンだ。
しかしいじめ反対を掲げる番組に限って安倍新総理をいじめまくっているのだから反吐が出るじゃないか。
マスコミは寄ってたかって自国のリーダーの足を引っ張るのが大好きである。奴らのやっていることは批評でも意見でもない。
いきなり話が逸れてしまうが、タウンミーティングのヤラセなど何も問題ではない。あの場合のヤラセは何が悪いのか、誰か考えて示したことがあるか?
ヤラセがあろうがなかろうがタウンミーティングの内容にも政治の動向にも関係ない。ヤラセの応答で参加者が納得したなら、ヤラセじゃなくても納得してるだろう。納得できないならヤラセじゃなくても納得できない。ヤラセかどうかはまったく別次元の話だ。他人が納得したから自分も納得しちゃうのでは雰囲気に流されてるだけのマヌケじゃないか。
また、ヤラセという言葉に反応して、吟味もせずに不正だ何だとヒステリーを起こす人間は、そもそも権力者アレルギーだ。権力者をとにかく悪事に結びつけるパブロフの犬というか異常者である。
タウンミーティングの参加者は公募だよね? どういうわけか権力者アレルギーの持ち主は、権力者の失態や不正を見るのが大好きだ。だから権力者アレルギーの応募者はかなり多い。
もしそんな中で政治家が言葉を間違えたり、上手く説明できなかったりしたら、それこそタウンミーティングはガタガタになるじゃないか。仮に善政を進めようとしていても、ちょっとした手違いや言葉の誤用だけでマヌケやアレルギー患者の猛反発を受けることになるんだよ。
善政にしろ悪政にしろタウンミーティングはヤラセ0では機能しない。
批評や意見は「そうではない、こうするべきだ」と提示するものだが、マスコミのやることはただの揚げ足取り、ただのいじめだ。メディアが堂々といじめを見せつけておいて、子供たちのいじめがなくなるわけがない。
「命の大切さ」より常識を身につけたらどうだ。そんなものは常識の中に含まれている。
えー、閑話休題ってぇことで。テーマは『命』でした。
何かあるたびに「命の大切さ」を唱えている日本人だが、命より大切なものはないという論調には疑問を抱かずにいられない。命の大切さを唱えれば唱えるほど凶悪殺人が増えているのが笑えるじゃないか。
カイジの兵藤会長が「命は粗末に扱わなければならん・・・!」とおっしゃっていたが、もっと言ってやってください。
いや、それは極論だが、今の風潮にはそれぐらいの勢いで調度いい。
命より大切なものはないと言うが、それは何故なのか?
一つしかないから? 死んだらすべて終わりだから?
そんな考えは容易に私利私欲に陥る。自分と100人の他人の命を天秤に掛けても、死んだら元も子もないなら自分の命を大切にするかもしれない。
もちろん自分より100人の命を重んじる者もいるのはわかっている。しかし極限に追い込まれたギリギリの人間が、最後の砦とするなら、この道徳はあまりにも脆いんじゃないか?
先の兵藤会長が「命を扱う」と言っているが、それはある意味で真髄を捕らえている。
命よりも大切なものがある。命はそのために「使う」ものなのだ。
では、命より大切なものとは何か?
それは『使命』である。
日本語は本当に綺麗なもので、意味は字面に表されている。『使命』とは『命の使いどころ』のことだ。
人にはそれぞれ使命がある。命は使命を果たすための手段なのだ。
だから命は大切である。だがそれは、単に生き長らえるために大切にするのではない。
私の好きな文章の中に「侍は窮地の友を助けるため、自ら窮地に飛び込む」という件り(くだり)がある。
危険を避けたいのは人間の本能だ。助けたくとも踏み込めないのは仕方ない。しかしそれでも侍は窮地に足を踏み入れる。それは何故か?
その答えは「侍は生きることよりも、愛することが好きなのだ」と書かれている。
あんまり言いたくないが、愛することは人の使命だ。愛するとは、その人のために命を捧げることである。
それは歴史の中で先人が幾度となく示してくれている。
生きるときに生き、死ぬときに死ぬことを侍は受け入れた。たった一つしかない命よりも大切なものを武士道は教えている。
特攻隊もそうだ。国の未来と我々の誇りを守るために散っていった。決して玉砕戦術だけが特攻隊の役目だったのではない。
人には様々な使命がある。それは果たせないことの方が多いかもしれない。
しかし使命に身を捧げることは美しいことである。何よりも命が大切な動物にはとても真似などできない。人間にしかできないことである。
こんなことを言ってると建て前だとか奇麗事だとか揶揄する奴もいるが、何が悪い。
たとえ本心では逃げ出したくても、どんなに苦しくても、泣いてしまうほど辛くても、美しい建て前を貫けば良いじゃないか。
欲望を抑えられず私利私欲に流されるクズどもが、私心を抑制して他者貢献する人間に向かって「おまえの本性はオレと同じレベルだ!」とは大いに笑わせる。
よく聞くと思うが、心理学者に言わせると現代人は「生きている感覚」が稀薄らしい。
自分の生を実感できないために人を殺す人間や、苦痛から逃れるために家族を残して自殺する人間がいる。快楽のために人を殺してみたり、それで平気な顔で死刑になる人間がいる。
彼らに「命の大切さ」を説いたところで、それが通じるとでも思っているのだろうか。彼らが「命の大切さ」を理解できないのは、命よりも大切なものを何も持たないからだ。
はっきり言ってやろう。命の大切さを説く奴らが異常な快楽殺人者を育てているのだ。
使命は生命よりも尊い。愛することの価値は命を捧げて余りある。それを貫くからこそ命は光り輝く瞬間があるのだ。
その瞬間を感じられる人間が、真の意味で命の尊さを知ることができる。
愛国心とか書いてとんでもないところから批判が来て話が逸れてもやめません。
いやはや、書きたいことが多すぎて追いつきません。
じゃあ毎日 更新しろや!
ごめん、普通に忙しかったりもするけど・・・ちょっとサルーインに「ごちゃごちゃうるさいんだよ、いいからかかってきな!」ってシフるミンソンにハマっちゃって・・・地摺り残月と乱れ雪月花がないみたいでガッカリだなぁ。相変わらずアースハンドは役に立たないし。
改造は面白いけど調合までやってるヒマはさすがにない。薬は結局 使い捨てだし、術法でカバーした方が能力アップにもなるから便利なんだよね。次はジャミルでディスティニーストーン制覇と行きますか! 水のアクアマリンはこっそり持ち出しちゃうぜ!
しかし日本は贅沢だ。仕事さえしとけば、あとは何の苦労もしなくてゲームもネットもできちゃうんだからな。徴兵もないし差別も格差もほとんどない。言論も自由、宗教対立もないし犯罪も少ないし勝手に平和で豊かであってくれる。
こんな恵まれた国はなかなかないよ。異常だぜ。
タイトルは「愛国心とか書くととんでもないところから批判が来て話が逸れちゃうからやめます。」だが、このブログには最初から愛国心が内在していることは明白だろう。そろそろ堂々と愛国心を論じても良いと思う。
ご存知の通り、先日、入学・卒業式で国旗掲揚・国歌斉唱を強制した学校が賠償金の支払いを命じられた。裁判長の判断では「個人的に愛国心の教育は必要だと思うが、法律問題として強制は違法である」とけっこうしぶしぶだったようである。
・・・・・・しかし異常ですよね。裁判 起こすって。
皆さんの学校ではどうでしたか? 私の学校は国旗も国歌もやってました。
実は私も、当時は国歌斉唱が非常に面倒で「国歌を影山ヒロノブの『CHA−LA HEAD−CHA−LA』にしちゃえばいいのに。ひっかるぅ く〜もをつきぬ〜け FRY AWAY!(FRY AWAY!)」とか思ってましたが、歌わないということはありませんでした。普通なら「面倒だけど日本だからしょうがないか」と思うだけですよね。
ところが例の彼ら、国歌斉唱を拒否。起立もしない。裁判まで起こした。しかも懲戒処分を受けた教師だけならまだしも、学校側は生徒にまで一人三万円の賠償責任を負うのだ。
・・・頭、大丈夫か? ここは裁判に頼らなきゃ何もできない国か? アメリカか? あ、違った、今の流行りではこう言うんだ。
欧米かっ!
はい、すいません、それが言いたかっただけです。
「愛国心」という言葉に反発する向きは多い。「愛国心は軍国主義を呼ぶ」なんてのは左翼の妄想だが、普通の人でも「日本は愛するに値しない」と感じているようである。知り合いでも愛国心反対者は「今の日本を好きになれない」と口をそろえて言うし、ネットでも同じような書き込みを見かける。
しかしこれらは、実はまったくもって身勝手で腹黒い言い分なのである。彼らの行動と言動を総合的に翻訳してみよう。
「私は何の努力もしたくありません。それでも幸せに暮らせる国が好きです。でも今の日本はそうじゃないので嫌いです。だからと言って少しでも日本を変えようと努力したくありません。
もらえる物はもらいます。でも私は何もあげたくありません。これ以上 税金を取られたくありません。
つまり日本は、私が何もしなくても私を幸せにしてくれればいいのです。国は私のために努力しなさい。それなら好きになってあげます。でも、好きになっても何もしません」
酷いもんでしょう。テレビ観てネットやって平和に暮らせるから日本に住み着いてるけど、日本のことが大嫌い。デヴィ婦人の口調で「あぁた方、寄生生物でいらっしゃるの?」とお訊ねしたく存じますわ。
国家は国民のためにあるが、国家を運営するのは国民一人一人である。一人一人の力が目に見えて及ぶはずがないが、国家という神様が勝手に存在しているわけでもないのだ。
それでもとにかく「国家」を嫌うなら、あとはもう、どの国の手も及ばないジャングルで全裸で暮らすしかないだろう。日本のパスポートを取得して日本の通貨を支払い日本の空港から日本の飛行機で出発し、現地の空港で日本人であることを確認されたら、現地の人に日本人だと思われつつジャングルに向かい、やっと国家から解放されたら全裸で暮らしなさい。
現在の自分を培ってきたのは、この日本という国である。日本を肯定しようが反発しようが今の人格を育んだ要素として確実にある。
あなたの好きな人が育ったのも国家のおかげだ。
「わたしは掃除も洗濯も炊事もしたくない。仕事もしない。それでも幸せにしてくれる男が好き。でも今の日本の男はそうじゃないから嫌い。だからと言ってダイエットしたりキレイになったり、少しでも男を変えようという努力はしたくない。
お金も指輪も夜景の見える高級レストランも、プレゼントは全部もらう。でも私は何もあげたくない。身体を迫られるのもイヤ。
つまり男は、私が何もしなくても私を幸せにしてくれればいいの。男は私のために努力しなさい。それなら好きになってあげます。でも、好きになっても痩せないしキレイにならないし何もしません」
こういう女性がお好みかな? 私ならビンタしたくなっちゃうな。いや、ビンタもしたくないな。
日本より豊かで平和な国はなかなかない。この国に住むのなら、日本を築いた先祖たちにひとまず感謝するのが道理だ。そして先祖が血と汗を流して築いた日本を受け継いだのなら、より良い国へ変えていくのが我々の役目じゃないか。
その上で今の日本が好きじゃないなら、愛せる日本に変えていくのが愛国心なんだ。
珍剣20代 しゃべり場!
やあ、みんな、世の中に疑問 持ってる!?
持ってる君、実に若者らしくてよろしい。存分に疑問を持って、自分で答えを出しなさい。大人に頼るなよ!
持ってないアナタ、もう年寄りですね。アナタが解決した疑問の答えを、若者に伝えてあげてください。まさか解決もしてないのに疑問を捨てたなんてことはありませんよね?
先日、数人の中年と若者と、そろそろ若者ではなくなってきた私でテーブルを囲むことがあった。そのとき若者の一人が「常識って何?」と実に若者らしい質問をしたが、大人は誰も答えられなかったのである。
私は「やかましい! ぬかすなガキが!」と怒鳴ってぶっ飛ばしてもいいと思ったが、そうもいかないので答えることにした。それがきっかけで彼は私の言うことをよく聞いてくれるようになったのだが、これはできれば大人にやってもらいたい役目だ。
私は大人の脳と子供の脳、両方を持っていなければならないと思う。大人の脳ってのは物事を断定して現実に対処できる脳で、子供の脳は何にでも疑問を持って柔軟に受け入れられる脳のことである(俺辞典より抜粋)。
たいていの人は社会に出ると仕事の忙しさに追われたりなんだりで子供脳を捨ててしまうようだ。しかし子供脳だけでは役に立たないし、役に立つことと役に立たないことの区別がつかないから しゃべり場しちゃう。若いうちはそれでよろしい。
私は若者らしい質問にきちんと答えた上で「そんなことより勉強(あるいは仕事)しなさい」と言うように心掛けているのだが、大人脳だけの大人はいきなり「そんなことより〜〜」になってしまうようだ。私から見ても、答えられずに苛立ってヤケクソで言ってるように見えるので、これでは相手が納得するはずがない。例えば自分の勤める商店に電話でクレームが来て、それがお客さんの勘違いによるクレームだったら説明して納得させないとならないが、上手く説明できないからと言って「そんなことで電話してくるな!」と受話器を叩きつけるのだろうか? 大人脳のクセに仕事ができないとはまったく情けない。
それにしても若者の疑問は本当に難しいよ。私も未だに明確な答えを出せずにいるものが多い。直感では答えが出せても、説明するのが非常に難しいんだな。
そこで、このブログを読んでいる皆さんに、若者の疑問にどう回答するか教えて頂きたい。
別に自信がなくても構わないし、自分なりの答えで結構です。答えそのものではなく、どう答えるかを教えてください。話が逸れても疑問を解決できるならOKです。
答えて頂きたい疑問は、例えば↓
「どうして自由にさせてくれないの?(自由って何?)」
「どうして子供の権利を尊重してくれないの?(権利って何?)」
「学校に何をしに行くの?」
「どうして援助交際しちゃいけないの?」
「どうして人を殺しちゃいけないの?」
こんな疑問をよく聞くかな。この中で答えたいものだけ答えてください。
ここに挙げたのはあんまりいい質問じゃないので、他に挙げてもいいですよ。日頃の疑問を教えてください。疑問だけでも、回答とセットでもどんどん書いてください。
最後に例として「常識って何?」に対する私の答えを書いておきますね。
「それは『どこからどこまでが常識か』ってことでいいかな? そんな『ここからここまでが常識です』なんてラインはないよ。その場にいる何人かが『常識だ』って言えば常識、ただそれだけだ。常識が何かっていう定義はない。
しかし常識がわからないと困るのは自分だな。大事なのは現実に対処すること。他人に『あいつは常識がないから信用できない』と思われたら面白くないし仕事にも響く。
で、常識を身につけるには身体で覚えるしかない。定義がないから頭だけで考えても答えは出ない。実際に経験して考えるしかないよ」
こんな感じでした。



