矢野絢子さんの「てろてろ」はすごくいいです。そういうわけで「テロ肯定論」前編!
まいどまいど、やっとこ更新です。月一更新でもついてきてね!
お願いします・・・
えー久々でなんですが2回に分けてちょっと受け入れにくいヤツをやろうと思います。
そのお題とは・・・
『テロ肯定論』!!
さあ、右翼ですら全肯定はしない大東亜戦争を全肯定しちゃうアブナイ奴が、いよいよ国家社会の大敵、テロまでも肯定し始めたぞ。
テロに巻き込まれてもいいというのか? あの悪夢の9.11テロまで肯定するのか? 初めて買ったCD「てろてろ」と関係あるのか!?
今回は前編、次回は後編でやろうと思います。お時間がありましたら付き合ってやってください。
前編は恒例、ニュースの話題です。
日本でひき逃げしてブラジルに逃げた男が裁判を受けることになった。
国外へ逃亡すれば犯罪者は犯罪者ではなくなる。当然ながら国によって法律が違うからだ。犯罪はその法律が適用される範囲での違法行為である。よって、逃げ込んだ先の国が承諾しなければ他国が裁くことはできない。
今回の件はブラジル国が日本国の代理として犯人を裁くことになった。ここまで来るのに、たしか8年ぐらいかかったはずである。気の遠くなるような年月だ。
また、信号無視が原因の自動車事故で幼い女の子を殺したブラジル女も、最近 頻繁にテレビに顔を出している。この女も国外逃亡しておきながら平気なツラで「信号は青でした」と宣っているのだから、遺族の神経を逆撫でしているとしか思えない。
もし皆さんが遺族の立場なら怒り心頭に発し、悔しさに涙が留まらないと思う。あるいは報復に出るかもしれない。私なら叩き斬りに行ってしまうところだ。
この気持ちは良い意味で人間らしい感情を持っていれば誰でも理解できるだろう。仮に身近な人間が報復に出ても止めないかもしれない。
しかし、それは犯罪である。犯罪と知って暴力行為に及ぶことは、すなわちテロである。
だが遺族に同情を示さない人間の方が明らかに少数のはずだ。
なんでもないことで人が命を落とし、悪人が悠々と生き延びたのでは、この世の道理が通らないではないか。
遺族は犯人を殺して日本に逃げ帰ってきても善いと私は思う。このテロを私は肯定する。
侍の信条を持っているなら切腹することも善い。仇を討って正義の道理を貫き、腹を切って公道の秩序に身を捧げることが、日本人の最も美しい姿の一つだと思う。勝手なこと言ってごめんちゃい。
もう一つ、最近のニュースで観た特集がある。リンチを受けて脳に障害を負ってしまった青年の話だ。
その青年は中学生の頃、人違いで不良グループに絡まれ、激しい暴行を数時間に渡って受けた。犯人の不良どもは途中で人違いに気づいた(というか、どうでもよくなった)が面白がってリンチを続けたそうである。
発見された当時、青年の顔は信じられないほど腫れ上がって、脳は大型トラックに猛スピードでぶつけられたようにグシャグシャに損傷していた。
一命は取り止めたが身体の機能不全が残り、特に脳の障害は日常生活にも支障を来たしていた。例えば新しいことをなかなか記憶できず三歩 歩くと忘れてしまうような状態である。
しかし青年は塞ぎ込んだりはせず前向きに生きることを決めていた。自殺衝動に駆り立てられることもあるが、一生懸命に生きる道を自分の手で選んだのだ。
ときどき自分をこんな目に遭わせた奴らを思い出し「くっそぉ・・・!」と思うこともあるらしい。少年だった犯人グループはさっさと刑期を終えてのうのうと普通に暮らしている。
でもそんな奴らのことを考えていてもしょうがない。それで自分の人生が変わるわけじゃない。自分の人生をどれだけ楽しめるかが大切なのだ。
私は違和感を覚えた。
青年のことを思えば同情する以外にない。もしも自分だったら・・・その苦悩は想像の域を出ないのだ。
私は集団暴行されたわけでもなく、脳に障害を負っているわけでもないが・・・・・・そうは思わない。どうしても彼と同じ考えには至らない。
青年が「自分の人生を楽しむ」と言っていたのは正しいかもしれない。
だがそれは「自分の人生がどこにあるのか」を見ていないからではないだろうか。
人生はほんの一瞬のことである。我々が生まれてくる前には気の遠くなるような歴史があるのだし、死んだ後にはそれこそ永久の歴史が積み重なってゆく。
我々には長く永く感じられるが、それは遥かに永い歴史の砂の一粒のようなものなのだ。
その死生観を持ったとき、答えは変わってくると思う。
自分の人生を精一杯 楽しむことよりも、やらねばならないことがある。
やられたらやり返すのだ。
復讐ではない。憎しみで傷つけるのではない。
やらねばならない。そういう感覚が沸き起こってくるはずだ。
そのエネルギーの一つは人間の根本的な怒りである。だが憎しみで肥大した嚇怒や、恨みで捻じ曲がった怨怒ではない。
人間が内に持つ激情が発する、根源的な怒りそのものをぶつけるのだ。それは本人だけができる。
殺しても構わん。理性が飛んだら叩き殺してしまえ。相手は理性の内にリンチを楽しんだのだ。
大切なのは自分の人生を「いかに楽しむか」ではない。「いかに仕上げるか」だ。
・・・・・・過激だったかなぁ〜。
パッと見は過激というか危険かもしれないけど、論理化すればそうでもないとわかるはずです。
今の教育を受けて育つと、怒りや激情や暴力は悪いものに見えると思う。私も以前はそう思っていた。
でも激情や暴力も人間の一部なんだよね。けっして否定的なものじゃないし、否定しても無くなりはしないんだ。
子供同士のケンカはすごく少なくなったように思う。ドラマやマンガで昔の子供の様子が描かれていると必ずケンカしてる奴がいるんだけど、私が小さい頃はもうほとんどケンカはなかった。今はもっと少ないんじゃないかな。
じゃあ激情や暴力がなくなったのかと言えばそんなわけはない。振るえない暴力はケンカの代わりに陰湿ないじめを生んで、表せない激情は子供同士の殺人みたいにして暴発するようになった。
激情や暴力をアメリカはテロと呼んだ。そして世界中がテロと呼ぶようになった。
テロをアメリカは悪と呼んだ。世界中がテロを絶対悪と呼ぶようになった。
何故、アメリカに激情がぶつけられたのか? 何故、アメリカに暴力が振るわれたのか? それだけの理由があったんじゃないのか?
そんなことを考える間もなく「テロ=悪」は固定観念になった。
すべてのテロを肯定するわけではない。
すべての激情や暴力を否定した世界がどう傾いていくのか、それを言っているのだ。
コメント
『痛み』は『自分自身』なり
おお、復帰おめでとうございます。今年も何卒よろしくお願いします。
それにしても真剣な書き込みを・・・有り難うございます。
ではではお返事を。
『悪』であるという絶対的な判断基準は〜〜十人十色な領域と、“議論の余地無く”そうである領域とがあります>
まったく同感です。その通りですね。
しかし自由こそ最善と思われている今の時代、善悪の判断基準は自由すぎて「“議論の余地無く”そうである領域」すら「十人十色な領域」と認識してしまう人間が非常に多い。
↑この意見を早とちりすると、私は自分の判断が絶対だと思ってる奴に見えるかもしれません。が、そうではなくて、それぞれの判断基準に「どこまで物事を見越しての判断基準なのか」と問うているのです。
例えば、10円 預けたら一週間後に100円 戻ってくる銀行があったとします。預けるのと預けないのと、どちらがお得でしょうか?
目先しか見えない人間は「預けたら手元から10円が減るから損だ」とか「預けるだけなら損ではない」とか言います。預ける方が明らかにお得なのに。
ところがそれを思慮の欠如と感じる人は少ない。彼らは「どう考えるかは本人の自由だ」と言って、思慮の欠如と自由を混同してしまいます。
「“議論の余地無く”そうである領域」すら「十人十色な領域」と認識してしまうのです。
これは今の日本を占めるおかしな個人主義、自由主義の影響ですよ。真に自由に生きるには努力と成果と道徳が必要です。
道徳についてはブログで論ずる予定ですが、私の言う「善」とは何かだけ述べておきます。
今の私と10年後の私、職能技術の練磨を続けていたら、どちらの腕が「善」でしょうか。当然ながら10年後の私の方が「善」です。
そして善を生むのは道徳です。これは普遍だと思われませんか?
しかし自由は善ではありません。自由の中でも善である人間が善なのです。自由は善を生む道徳にはなり得ない。
大事なのは暴力が正しいとか正しくないとかではなく〜〜“そこに至る感情”には認めるべきものがあるはずだ、ということです>
読み取って頂けて嬉しいです。
テロが正しいとか正しくないとか、そんな次元の話ではないんです。
加害者は絶対に加害者でしかないのか? 同様に被害者は絶対に被害者でしかないのか?
加害者の動機に一端の正義もないのか? 被害者には何一つ非が無くすべてにおいて正義なのか?
「テロ=悪」の公式に騙されて真実を見誤るな。被害者ヅラは、自分が加害者であることを隠す有用な仮面だ。
あ、言うまでもないと思いますが「加害者にも人権がある」とか「みんなが被害者」とかイカレた善人ぶりっ子をやってるんじゃないですよ。
同じところに立てなければ大事に思うことにならないなんてことはないはずです>
この後の文章にもまったく賛成です。
弱者に手を差し伸べる優越感や、傷つけられた人間に共感しているつもりの陶酔感は思いやりではない。
他人には同情するまでしかできず、そこから救うことが優しさで、身体を張ることが思いやりです。
では最後に相違点を一つばかし。
枠線で区切られた文章を青年の話に置き換えさせてください。
青年がやり返すべき動機は『痛み』ではないんですよ。
やり返すエネルギーの一つは怒りという激情です。その激情の原点には刻詠さんの仰るとおり『痛み』もあります。
しかし激情はガソリンですが、ガソリンだけではまだ青年は走らないんですよ。
青年は犯人を許していません。しかし報復もしません。あえて悪い言い方をしますが、青年は逃げています。
許すなら許す。許して自分の新たな使命を全うする。
許さないなら許さない。必ずややり返す。
許しもせず仕返しもせず、目をそむけて別の道に逃げるのは卑怯者のすることです。
卑怯は悪ではないかもしれません。誰かを守るためにやむを得ず卑怯な手段を用いることもあるでしょう。
しかし善ではありません。許すか許さないか、どちらかを選ばねばなりません。
許せないでしょう。たぶん私は許せません。やり返して切腹するかもしれません。マジで。あるいは誰かに止められて、許すことを選ぶか・・・いずれにせよ、どちらかを決断しなければなりません。
その決断がエンジンです。ガソリンがエンジンに注がれて初めて物事は動きます。
青年は決断する道徳を持って行動しなければならない。それが善です。
卑怯は善ではない。許すのか許さないのか、自分の手で決着をつける必要があります。
私が善であると考える動機は『痛み』ではなく『道徳』なんですよね。
・・・・・・う〜む、非常に良いやり取りだ。
今回は刻詠さんのコメントまで含めて『テロ肯定論』ということにしましょう。勝手にそうしちゃいましょう。
著作権の問題は夢と時間が裏切らないので許してください。
P.S.
ダンボールハウスなんですが、一度はいなくなった荒らしが復活・増殖してるので、少々お待ちを・・・
HPを作るべきなんだろうか。
>しかし自由は善ではありません。
選択肢がある、時間がある、手段がある、権利がある……自由自体はひどく気が楽なものに思えて、何が厄介って、人の自由が“有色不透明”なことではないでしょうか。
自由の中にいるのは確かに自分ですが、それを“自由”だと汲み取るのも自分。しかし大半の自由が“与えられたもの”であり、望んで掴み取ったものではない。
義務教育のもと勉強できる境遇を束縛だと感じる人もいれば、それを渇望する人もいるし、何も感じずに垂れ流すだけの人もいる。
本来の自由は無色透明なはずなのに、人の名の下に普遍化されるとその澄んだ空気が濁り始める。
「何をしてもいい」と「何もしなくてもいい」、「こうであって欲しい」と「こうありたい」は限りなくイコールに近く、それが認識された時点で、自由はその人の色に染まった『自由』になる。漂流と放置、願望と憧憬―――それらはまさしく染まった『自由』の一姿。核たる主を包む、同調された衣装。
有色不透明になった『自由』には確かに善も悪もないと思います。「自由だからって何をしても許されるわけじゃない」とはよく言ったもので。意識無意識、何をどうしようが、残された結果から人来の判断基準たる善悪が発生する。
善悪の依り代は人間です。
浸った『自由』のなかでもそれを『善』に染めることの出来る人間が善なんだ、ってことでしょうか。
自由寒天人間風味
ああ、脱線しました。たぶん眠いんですね(ぁ
>激情はガソリンですが、ガソリンだけではまだ青年は走らないんですよ。
なるほど、上手い喩えです。なるほど。すみません、眠くなってきて言葉が浮かびません。ぁぁ。
>著作権
大丈夫ッスよ〜
>ダンボ
了解ッスよ〜
選択肢がある、時間がある、手段がある、権利がある……自由自体はひどく気が楽なものに思えて、何が厄介って、人の自由が“有色不透明”なことではないでしょうか。
自由の中にいるのは確かに自分ですが、それを“自由”だと汲み取るのも自分。しかし大半の自由が“与えられたもの”であり、望んで掴み取ったものではない。
義務教育のもと勉強できる境遇を束縛だと感じる人もいれば、それを渇望する人もいるし、何も感じずに垂れ流すだけの人もいる。
本来の自由は無色透明なはずなのに、人の名の下に普遍化されるとその澄んだ空気が濁り始める。
「何をしてもいい」と「何もしなくてもいい」、「こうであって欲しい」と「こうありたい」は限りなくイコールに近く、それが認識された時点で、自由はその人の色に染まった『自由』になる。漂流と放置、願望と憧憬―――それらはまさしく染まった『自由』の一姿。核たる主を包む、同調された衣装。
有色不透明になった『自由』には確かに善も悪もないと思います。「自由だからって何をしても許されるわけじゃない」とはよく言ったもので。意識無意識、何をどうしようが、残された結果から人来の判断基準たる善悪が発生する。
善悪の依り代は人間です。
浸った『自由』のなかでもそれを『善』に染めることの出来る人間が善なんだ、ってことでしょうか。
ああ、脱線しました。たぶん眠いんですね(ぁ
>激情はガソリンですが、ガソリンだけではまだ青年は走らないんですよ。
なるほど、上手い喩えです。なるほど。すみません、眠くなってきて言葉が浮かびません。ぁぁ。
>著作権
大丈夫ッスよ〜
>ダンボ
了解ッスよ〜
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テロの肯定……難しい、いや、苦いテーマですね。
悪意に基づく悪の行為には相応の罰が必要です。相応の罰を科すためにはそれが『悪』であるという絶対的な判断基準が必要。そして絶対的な判断基準とは即ち大衆の意志、善悪や喜怒哀楽の感情であり、それらは十人十色な領域と、“議論の余地無く”そうである領域とがあります。
苦いと表現したのは、それに振り回される『個人』と『大衆』の感情が影響してくるからです。
代表的、というのも言いえて妙ですが、代表的なテロ行為の例としてテロリストによる爆弾テロをあげてみます。
「アメリカの〜〜に納得できない〜〜が、〜〜で爆弾テロを実行。罪無き市民数十人が巻き込まれ死亡しました」
ニュースで聞き及んだ人に、これは『悪』かと尋ねれば、おそらく全員が『それは悪だ』と判断するでしょう。
片面から見た限りでは、“私もそう思います”。
では仕掛けた側の意図は何だったのでしょうか?
テロという形で世界に示すその行動が、一般に『悪』として受け取られてしまうことは容易に想像できるはずです。しかしテロリスト側からしてみれば、正しいのは自分たちであり、言っても聞かないから『正義』の行動を起こしただけのこと。おそらく“彼ら”自身に関わる根本的な不満、周囲との齟齬などに基づいた『集団の正義』の意志です。
集団、大衆の『正義』や『悪』という判断基準はそれだけで力を持ち、溶け合うことが難しいものです。。いつしか個人視点の『正義』と『悪』は『集団の正義』と『集団の悪』の判断に支配され、感情はおしなべられ、引くに引けないただ1つの方向で統一されてしまう。それが暴力として発露する。
テロに対する大衆にとって、関係のない側面からの強力な意志は真っ先に対立するもの。自分たちにとって“それ”は大事ではない。それは自分たちを動かさない。言い分は受け入れられない。その行為も受け入れられない。なのに押し付けられる強力な意志は、自分たちにとっての『集団の正義』を乱していく。
あれらは何だろう?
あれらは『悪』でしかない。
「あいつらは間違っている。悲しいことだ」、と。
ではもっと細かい、個人の判断基準ではどうでしょうか。
私は暴力が嫌いです。正しい暴力があるとも思いたくありません。しかし、大事なのは暴力が正しいとか正しくないとかではなく、Nayumaさんの仰るように、“そこに至る感情”には認めるべきものがあるはずだ、ということです。
例えば、
================================
父を、母を、友人を、身近な大事な人を殺されてしまった。永遠に奪われてしまったとする。
それは自分とともに生きてきた、言わば人生の一部です。
『自分』とは即ち『感情』であり、傷つけられた感情に最も近いのは間違いなく自分自身である。
大事な人を、感情の一部を奪った張本人が言う。
「反省はしていない」「誰でもよかった」「殺す気はなかった」「申し訳ありません」「今はただ罪を償いたい」
それは遠いところで発せられた単なる言葉に過ぎない。
大切なものを失った悲しみを、怒りを、誰よりも理解できるのは自分以外にいない。
相手が反省しているとか、していないとか、事故だとか、故意だとかとは全く関係がない。
奪われた痛みを感じている限り、周囲の全ては自分にとって関係がなくなる。犯人も、あるいはその被害者、大衆の『正義』さえも。
想像の域を出ないのも、仕方ない。どれだけ大事に思ってくれても、越えられない違いがある以上、その周囲からは同情しかできはしない。
自分はその『痛み』の原点にいるのだから。
痛みがある限り、その人は救われない。痛みに堪えれても、忘れても、どれだけ以前のように振舞えても、元に戻ることはできない。奪われた事実と傷跡は決して消えはしない。
それは途方も無い痛みである。『痛み』は『感情』であり、『感情』は全ての『行動』の根幹であり、『行動』とは即ち『自分自身』である。
『感情』は留まることができず、『自分』という器の中で『行動』へと変換される。
怒り、絶望、忘却、希望、回帰、疲弊、悲哀。
どんな形でもいい、『痛み』は時間とともに必ず変化していく。
だがどれだけ周りにとって見てくれが違っていても、それは同じもの(痛み)から生まれた結果である。
「奪われたのは私だけ」「やり返してやる!」「誠実に謝ってくれたから許す」「絶対に許さない」「事故だった。仕方ない」「そんなこと関係ない。私は悲しんでいる」「もう忘れたい」「前を向かなきゃ」「どうか皆さん聞いてください」「何も悪いことはしてないのに」「どうして、あいつはのうのうと生きている!」
その『行動』に果たしてどれほどの違いがあるというのだろうか?
みなみな、『痛み』という強い感情から生まれた、確かな『自分』であるはずなのに。悲しむのはよくて、怒りをぶつけることがどうしていけないのか。
周りは言う。
「そんなことしても彼は帰ってこない」と。
そんなことは分かっている。でも『痛み』は『私』だ。誰よりも近いところにいるのは『私』だというのに!
================================
みたいな。途中から随分感情的になってますが・・・・・・過激だったかなぁ〜(ぉ
純粋な『痛み』の原点は自分から発せられていて、周りはただそれを感じ取り、各々のフィルターを通して善悪や喜怒哀楽に位置づけるだけ。
これはどれだけその人に近づこうとも、決して埋まらない距離なのだと思います。周りを受け止め、感情の形を変えるのも変えないのも自分自身ですから。
よくないよ、と。
周囲の人が、『痛み』にむせぶ自分を大事に思ってくれる。それはとても尊いこと。だけど決して同じ『原点』からでは話せない話です。
それこそ、同じところに立てなければ大事に思うことにならないなんてことはないはずです。距離を0にすることだけが思いやりではないはずです。
悲しそうな、苦しそうな、あるいは怒りに震える『痛み』の原点に少しでも近づこうと、同じ目線で見てあげようと、自分なりに働きかけることこそが、『思いやり』の原点であるはず。
近ければ近いほどいいとか、近さに美徳を感じることが『思いやり』の姿ではないと思うのです。
だからいいんですよ、『痛み』もその発露たる『行動』も、それを思う『思いやり』も独りよがりで。ただ、それぞれの原点に立っている自分が100%正しいとは限らないのもまた事実です。
だから人間は1人では生きていけない。誰かと共にあり、時に自らの『正義』と『悪』をかけて争いもする。
……難しいですけどね、このテーマもまた(苦笑
『正義』は人の数だけあるのですよ(ぉ
P.S.ダンボールハウスの例のデッキ見逃した恐れが。もしかして流れました?見つけれてないだけなのかな(汗